はじめまして
はじめまして(*’ω’*) 心理カウンセラーの和未(なごみ)です。
突然ですがあなたは「あの人が許せない」「あの人と性格が合わない」「あの人の言動に傷つけられた」「あの人と関わりたくない」と思ったことはありますか?誰しもそんな経験が一度はあるのではないでしょうか?
私はあります。でも、『この世に悪い人はいない。人のことを悪く思ったらいけない』と私は幼い頃からずっと思っていました。そして、相手を否定する自分の心を出さないように自分自身を否定しながら我慢してずっと閉じ込めてきた私。自分が我慢すればいいだけのこと。
そんなふうに単純に考えて大人になり何十年たっても変わることなく、傷ついたまま自分を犠牲にして過ごしてきました。
ですが、そんな自分を犠牲にする考え方を変えなければ!!と思うような出来事に出会ったことでやっと長年、自分を苦しめてきた考え方と向き合い、変えることで私の心はずいぶん自由で楽になれました。
「相手に振りまわされたりイライラしない自分になりたい」
「クヨクヨ悩むこともなく生きやすく、幸せを感じられるようになりたい」
もし、私と同じような思いに苦しんでいる方がいるなら少しでも力になりたいと思い個人的なことですが赤裸々に書いています。昔の私だったらきっと自分を出すことが恥ずかしい!と思い、こんなふうに公にすることはなかったと思います。
それでも私の経験を伝えることで同じような悩みを抱えている人の『生きづらさ解消のヒントになれば!』『カウンセラーとして人の支えになりたい!』という思いが強くなり暴露することにしました。そんな私の体験を読んでいただけたら嬉しいです。
理不尽な思いを持ち続けた幼少期
私が受け入れられないと思い、苦しんできたその相手とは実の母親です。一般的な言葉でいうといわゆる毒親です。幼いころは祖母、父、母、姉、私の5人家族で暮らしていました。その後、しばらくしてから妹が産まれました。
家での食事の時間は幼い私にとっては拷問のような時間でした。料理下手な母親が作る料理には味がほとんどついていない素材そのもの。
ご飯が食べれないからという理由からおやつも果物ひときれでお腹はペコペコなんですが、味がついていないことで食事をたべることがひと苦労でした。それでも大人なみの量を残さないように2~3時間かけて食べなければいけない毎日。
きれいに食べ終わるまで椅子から立ち上がることも許されません。食べれなくてじっと座っていると憎しみたっぷりの表情で母親は「食べなさい!食べないなら外へ出すよ!」と言い、私は家の外にほうり出される始末。
なぜ、ご飯を食べないことで外に出されるのか?意味もわからないまま、食べない自分が悪いんだと自分を責めて泣き続ける日々でした。そんなときにいつも「もういいから、家にはいりなさい」と助けてくれるのは祖母でした。
祖母は優しくていつも私の味方をしてくれる存在で祖母と母は仲が悪く、私の前では喧嘩はしませんでしたが子どもながらに険悪な雰囲気を私は感じとっていました。ところが心の支えだった祖母は私が小学生低学年になると家を出て叔母の元へ行ってしまいました。
今思うと祖母も母親の態度や行動に耐えられなかったんだと思います。また、私はもちろん姉に対しても「なぜ、それをしたらいけないのか」という理由を告げることもなく「いけない!」と顔をひっぱたくこともあった母親。
母親からの嫌味や暴言をあびて幾度となく傷つきながら小学生から高校生まで学生生活を続けてきました。私は幼い頃「お母さんが好き!」と嬉しそうに話す友達がうらやましいと感じていた時もありました。
『〇〇ちゃんのお母さんはきっと優しいんだろうな~。きっと、すてきなお母さんなんだろうな~』って。私は母に対してそんなふうに感じたことがないので友達が ”お母さんが好き”と言う気持ちに対して『なんで私はそんなふうに私は思えないんだろう?』って不思議に感じたこともありました。
その気持ちは成長するにつれ、私が思春期に入った頃から母親に対して”この人は許せない”存在”へと変わっていきました。その思いは私だけでなく家族全員が感じてきた思いだったと思います。
そして、中学生の頃、ある日突然私は心臓が壊れるんじゃないか?!と思うほどバクバクと高鳴り、ものすごい恐怖に襲われパニック障害のような症状を体験したことがありました。今、考えると母親に対するストレスからだったと思います。
母親は顔を合わせれば文句や嫌味で攻撃をしてきます。年を重ねるごとにその攻撃はひどくなる一方。学校は勉強と部活でしんどい毎日でしたが、友だちに恵まれて家で過ごすよりは外にいる方が気が休まるので早く家を出たいと思っていました。
私だけではなく姉や妹も母親に対する不満は毎日爆発させるほど抱えていて口げんかは日常茶飯事。むしろ、けんかにならない日はないほどです。もちろん、同じように父親も。
私が幼いころから父親と母親は仲が悪く、目の前で喧嘩をすることはありませんでしたが母親が父親に対して独り言のように文句を言い続けていました。そんな家庭環境だったので私は県外の短大を選んで進学し家を出ました。
やっと静かな落ち着いた暮らしができると心底ほっとしました。私にとっては短大に通うため一人暮らしをしているときが家族と離れて暮らすさみしさよりも安らぎを感じ、楽しく過ごせた時間だったと思っています。
悪夢のような毎日がカムバック
短大を卒業した私は保育士になる!という夢が叶い喜んだのも束の間、就職を機にまた地元に戻ることになりました。そして必然的に地獄の実家暮らしが始まったのです。仕事で疲れて帰ると家では母親から相変わらずの嫌味と文句の嵐。慣れない仕事に疲弊している上に家でも気が休まらない毎日でした。
またもや私は早く家を出たいと思いながらも保育士という安月給の壁を乗り越えられずに我慢に我慢を重ねていました。自分の母親に対する考え方がおかしいのか?という思いよりも家族みんなが同じように感じているということは母親の考え方や心の在り方がおかしいんだということに気づきました。
母親の理解できない不快な行動や言動は親戚や近所の人からも指摘されるほどだったんです。それからは母親の言動や行動を治さなければ!と思い精神科に連れて行こうと考えたすえ、私が精神科に相談に行き受診を促したこともありました。
私が病院に行ってほしいと告げると母親は「そんなことを言うあんたがおかしい!」と言って話すら聞かない人。話し合うどころか怒り狂って暴言が始まる。病院をすすめても聞く耳を持たない母親に『もう、打つ手はない・・・。』諦めてしまう自分もいました。
その一方で母親の暴走行動は止まりません。母親は「車のなかにあったものが盗まれた!」と怒りだし、ひどいときには警察を呼んでしまうこともあるほど。何を言っても人の意見を聞かないので誰も止められないんです。
家族一人ひとりがどこへ行き、何をしているかを常に監視していなければ気が済まない状態。まるでストーカーのように・・・。私たち家族は監禁されているような気分でした。さらに父親が会社にいるか確認するために会社に連絡を入れることも・・・。
仕事から帰ってきた父親に「浮気をしている!」と母親は責め立て狂ったようにわめきちらす毎日に私も父親もうんざり。まだ、中学生だった妹はその様子を見て、ただただ泣いていました。そして、妹はメンタルを崩し、ひきこもり状態になり家を出るまでの約10年間も苦しむことに・・・。
浮気をしていないのに母親が激怒するので父親も毎日のように怒り、毎晩怒鳴りあう声が外まで聞こえます。いつまでたってもおさまらないので私が喧嘩を止めに入る始末。例をあげればキリがないほど母親はおかしい行動だらけ。問題は解決しないままその後、何十年も経過していくのでした。
さらに待ち受けていたどん底の結婚生活
私は家を出たいという思いから当時付き合っていた人と結婚をしました。結婚する前から喧嘩が絶えず、一度は別れようと私から切り出すも受け入れてもらえず、これまたストーカーのようにしつこく依存・束縛してくる夫。今思えば、夫は母親に行動や発言がそっくりでした。
そんな状態でも自分の気持ちより夫の気持ちを優先して結婚してしまいました。そんな結婚だったので当然のように頻繁に喧嘩が絶えず、「出ていけ!」と言われる毎日。結婚2年目に元夫が仕事を辞めたときには衝撃的な出来事が起きました。私は保育士として働いて家計を助けるべくコツコツと働く毎日。
私はお金への不安から、なかなか職につかない夫に「仕事をしてほしい」とお願いすると夫はまさかの行動に! 今まで優しい一面があった夫は「うるさい!」という暴言とともに無言で私が泣くまで足を蹴り続け暴力をふるってきました。私は怖くなり夫の顔見ることもできない状態。
『暴力はしないと信じていたのになんで?』私が裏切られた悲しみから泣き続けていると夫はふと我に返ったのか「ごめん」と言って暴力はおさまりました。これが私の初めてのDV体験でした。
それからは何も言えなくなり、夫の様子をうかがいながら過ごす毎日。子どもができれば夫との関係も変わるのかもしれないという思いもあり出産もしました。今思うと娘が産まれたときが私にとって1番幸せを感じたひとときでした。
娘が産まれてからは夫の暴力はないものの、暴言や無視をされ続け10年以上も我慢して過ごしてきました。娘が5、6歳の頃になると夫の価値観や態度についていけなくなり、私は思いきって娘にこう告げてみました。
「お母さんと一緒に家を出て暮らさない?」と父親と別れて暮らすことを提案すると意外な言葉が返ってきて私は撃沈。娘は少し困った表情でぽつりと一言。「3人で暮らしたい」
ここでも私は自分の気持ちより娘の気持ちを優先していました。そして、再び『私が我慢すればいいこと』『娘が大きくなったら家を出よう』と自分のつらい思いを閉じ込めました。あまりのつらさに一人で抱えきれなくなってきたので友人に相談したこともあります。
友人からは「お互いに感謝が足りないのでは?」と言われ、友人が信仰していた正当な宗教に入り夫へ感謝をすることも試みました。もはや神様にすがりつかなければ辛さを紛らわせない状態。それでも一向に夫との関係はかわらず、私は夫婦関係と転職への不安から占い師に助言を求めるようになりました。
夜逃げ同然で娘と一緒にまさかの家出?!
ある日、そのときは突然やってきました。占い師から突然告げられた言葉は「今すぐ、家を出てください」でした。「お母さん、家を出よう!」娘も私の背中を押してくれたので夜逃げのようにして娘を連れて自分の実家へ帰りました。「家族3人で暮らしたい」と言っていた娘も小学6年生に成長し夫の態度や接し方には違和感や不満を感じていたようです。
あのとき、勇気を出して家を出なかったらきっと私は今もつらい結婚生活に苦しんでいたと思います。夫から離れてホッとしている気持ちがあるにも関わらず、なぜか夫に対する「申し訳ない」という気持ちから涙があふれて仕方なかったことを覚えています。
おそらく、夫からは依存、束縛される関係になっていたのではないでしょうか。苦しいと思いながらも自らもどこかで夫に対する依存があったのかもしれません。その後、娘は中学生となり入学式からわずか1週間で不登校になりました。娘に寄り添い毎日散歩をする日々。
病院を転々とした結果、いきついたのは娘はHSCだという事実。不思議なことに私が”母親を許せない”と感じていたことと同じように思春期に入った娘が夫に対して”父さん嫌い”と言い出したことからこれは負の連鎖が始まっていることに気づきました。
これは断ち切らないと!!という思いから自分の心の在り方(問題)と向き合うきっかけになっていきました。今この負の連鎖を断ち切らなければ、娘に子どもができたときに孫の代まで同じようなつらい思いをさせてしまうのでは?と感じたからです。
また『母親がおかしい、精神的な病気ではないか?』とネットで調べていくうちに母親の精神的な病気の背景だけではなく、自分の心の在り方にも問題があったことに気づきました。私は保育士をしていた経験があり、自らの子育てもしています。
子どもを育てる過程で自己肯定感が子どもの成長に欠かせない重要な基盤だということをその都度、学んできました。ところが私は自分が嫌いで自己肯定感が低かったんです。その当時の私の自己肯定感を%で表すなら100%中30%くらい。
それでも私は自己肯定感が低くても保育士や母親として子どもたちと関わることに問題はないと思っていました。実際は母親として子育てを通して思い知らされたのは娘の自己肯定感の低さでした。
娘は小学校の頃になると”自分が嫌い!”と自己否定したり、いつも自信がなくチャレンジする前からあきらめていたり…。それはまるで、わが子の姿を通して自分を見ているようでした。自分はどうでもいいからとにかく我が子だけでも自己肯定感が高く育ってほしいと思っていました。
自分の願いとは裏腹にわが子も自分と同じように自信がなく生きづらさを感じながら成長していることに気づかされたんです。”親は子の鏡、子は親の鏡”とはこういうことだと実感させられました。そこから『自分が変わらねば!!子どものために!!』と…。
自己肯定感を高くするべく半年間、思考の転換や心の在り方を見つめ直してやっとの思いで自己肯定感を高めることができました。それと同時に子どもも自然と自己肯定感が高くなったようで、学校の先生からも「以前と違って自信をもって生き生きと過ごせるようになった」と言われたことも。
娘自身も自信をもって過ごせるようになったことを実感していてうらやましいほどストレスもなく毎日が楽しそうなんです。自己肯定感が高くなることで人が変わったのようにこんなにも毎日が違うという事実を目の当たりにさせられました。
私自身も周りから自信がないことを指摘されてきましたが自分が変わることで以前のようにクヨクヨ悩むこともなく生きやすく幸せを感じられるようになったんです。また、母親がおかしな行動や言動を通して私に『自分の心の問題と向き合うように”と間接的に知らせていたのかもしれない』と今では思えるようになりました。
自分と向き合うことで心の在り方の大切さを身をもって知ることができ、カウンセリングを通してお客様へ伝えることができる私になれたことに対しては母親に感謝をしています。また、娘も私と同じように自分の心と向き合い視野が広がったことで今まではイライラしていた思いが減ったと言っています。
最強の鎧を身につけて臨んだ最後の闘い
家を飛び出したあの日から夫と別居し3年越しの離婚調停のすえ、やっと離婚をすることができました。ずっとずっと夫との関係性に悩み、夫の態度や行動に振り回され我慢を重ねてきた私。
シングルマザーになる上での経済的な不安を乗り越えて、『自分の気持ちを優先することが自分だけではなく娘も幸せになれる!』と気持ちを切り変えたことで自由になり、心も軽くなりました。そして、ひとつ問題を解決した矢先に待っていたのはもう一つの大きな壁、母親との闘いの幕開けでした。
再び実家に戻ったことでさらに状態が悪化した母親に向き合いながら父親の介護に向き合う日々となりました。その後、母親は運転免許証の更新の際、病院へ受診したことがきっかけで軽度認知症と診断を受けました。
ドンドン!ドンドン!母親が「通帳を返せ!」と騒ぎ出す。私の部屋のドアが壊れそうな勢いで叩きならすたびに私の心臓もバクバクと壊れそうになる。身体もこわばり、母親がドアをこじ開けて部屋に入ってこないようにドアを押さえて必死の抵抗。
一度怒りだしたら、何を言ってもこちらの言葉は耳に入らない母親に何度もドア一枚で自分を守り、逃げてきました。何度も繰り返されるドア一枚ごしの闘いにしんどいと思いながらも『ああ、また始まった』と嵐が通り過ぎるのを冷めた気持ちでやり過ごせるようになっている自分もいました。
さらに宅配で冷蔵庫2台に入りきらないほどの食材が届く日々。『だれがこんなに食べるの?家には父親、母親、娘、私の4人しかいないのに。』バナナは6房、ミカンは4袋、牛乳は5パック。同じものを一度にたくさん買ってしまう母親。
どう考えても1週間では食べきれない食品の量。日持ちしないものは食べきれず、腐っていく・・・。食事の用意をする私に嫌味と不満たっぷりの口調で「なんで食べ物を腐らせるの?あんたが使わないからでしょ!」と言って私のせいにする母親。
心の中では『また、私のせいにしてる。』と思いながら今までだったらイライラして言い返していた私。しかし、自己肯定感をアップさせた私はイライラすることなく、母親の言葉をスルーできる心の余裕が持てるようになっていました。
『よし!私は負けない』心の中でガッツポーズ!私は自己肯定感が上がったおかげで母親の言葉に傷つきにくくなったんです!自分の変化と成長を感じた瞬間でした!それでも現実問題はかなり深刻。食費だけでひと月に10~20万という金額の買い物をしてしまう母親の行動には家族みんながお手上げ状態。
このままでは父親が一生懸命働いて貯めてきたお金も使いつくされてしまう。実際にたくさんあった父親貯金を母親が銀行からおろして好きなように使いまくっていました。そんな崖っぷち状態のときに父親はストレスからか病気になり入院。
なんとか回復できたので退院することになりました。そして私は新たな決断をすることに。父親は介護が必要な状態になってしまったので当時副業でしていたバイトをやめて私は父親の介護をすることにしました・・・。もちろん、母親が家にいる限りは心が休まる暇もありません。
容赦なく文句や暴言を吐いてくる母親から父親と娘を守るために母親を病院へ入れることを決意!私にとっては最後の母親との闘いが始まりました。私ひとりでは母親を病院に連れていくことは何度も失敗しています。
そこで姉と妹、地域の包括支援センターの人や受け入れ先の病院に相談し、協力をお願いしたうえで、7~8人体制で母親を取り囲み、強制的に話し合う場を作りました。さらに家族だけではなく第3者の人の力も借りることで母親は病院受診し、入院治療を受けることができました。
そして、やっと何十年もかけて母親の病気の正体が軽度認知症、統合失調症であることがわかりました。長年母親の暴言や行動に傷つき悩まされてきた私や家族。今までは母親のことをひとりで悩んだ日々。
公共の相談機関に相談に行ったり、迷惑をかけたご近所さんに頭を下げて謝罪をするなどひとりで背負ってきましたが何ひとつ解決につながりませんでした。正直、手に負えないとあきらめていた時期もありましたし、母親と距離を置いて平穏に過ごせた時期もありました。
何十年もかかってしまいましたがこのままでは自分や家族がつぶされる!という危機感から母親との問題に向き合い、あきらめなくてよかったと思っています。また、私が毒親である母親に立ち向かえられるようになれたのは底辺だった私の自己肯定感を高めたことだと思います。
母親の心無い言葉や行動に何度も傷つけられてきた自分を自分で癒しながらあきらめない気持ちを強く保てたからだと感じています。
予想外の悲しみに襲われて
母親が入院してから父親と娘と私にやっと平穏な家庭生活が訪れました。父親も笑顔を見せることが多くなり『これが普通の幸せな家庭というものなんだろうな』と感じられる日々を過ごせるようになった矢先のこと。元気だった父親は肺炎により入院。
2週間後には退院する予定だったのでいつ帰ってきてもいいように部屋を掃除し新しく介護用のベッドを用意して待っていました。そして、明後日には退院を控えていたある夜中。突然、私のスマホがなりました。恐る恐る電話に出ると「(父親が)息をしていません。」耳を疑うような看護士さんからの一報。
病院に着いたときには延命措置もされていない状態で口を開けたまま固まっている父親の姿に呆然と立ち尽くす私と高校生の娘。
『明後日には退院だったのになんで?』そんな想いから現実を受け止められず、娘と一緒に二人で涙が止まらず静かに泣きました。私は今まで生きてきた中で一番泣いた瞬間だったと思います。
やっと平穏に幸せを感じながら暮らせるようになったのに・・・突然他界してしまった父親。あまりにも突然だったので父親の死に困惑し、TVをみていても感情に関係なく突然涙があふれ出てくる私。
もしかしたら母親の問題を見届けるために一度は元気になり、家に戻ってきて私に父親のお世話(介護)をさせてくれたのかもしれません。
『何十年も一緒に母親に悩まされてきたから、やっと父親に平穏な生活をさせてあげられる。親孝行をしていこう!と思っていたのに。』
『なんで今、逝っちゃうの。これからだよ、お父さん。してあげたいことはたくさんあったのに、してあげられなくてごめんね。』
『家族のことでたくさん苦労したよね。育ててくれてありがとう。』
私のこんな想いが頭をかけめぐります。
生前、父親が口癖のように言っていた言葉『ありがとう』『こんなことしかできんで、ごめんな』『迷惑かけてすまんな』
この言葉を今は娘と父親のものまねをしながら、やり取りをして「おじいちゃんだったらこんなふうに言うよね。」な~んて冗談をまじえて父親の思い出話をすることも・・・。
突然の父親の他界に今も悲しみは癒えていませんが、友だちや家族に父親との思い出話をしたり、毎日お仏壇の父親に話しかけることで気持ちを前向きに保つことができています。自分の気持ちを閉じ込めずに泣きたいときにはたくさん泣くって大切なことだと思います。
最後に
私は自己肯定感の低さから生きづらさを感じつつもどうすれば良いのかわからないまま、自分に向き合うこともなく母親となってしまいました。今となっては自己肯定感の低さに”気づけてよかった”と同時に”子どもにまで影響する前に自分を改善したかった”と思っています。
だからこそ、自分の経験が一人でも多くの人の役に立てれば嬉しいなと思いながらカウンセリングを通して私流の心の在り方を伝えています。もし、私と同じような思いに苦しんでいる方が幸せになりたいと思っているとしたらお力添えできることがあります。
私の経験をもとに幸せに生きるために自己肯定感を高め、ストレスから守れる自分を築くためのお手伝いをさせていただきます。また、苦手な人に対して苦しんでいるのであれば、相手をどうにかしようとするのではなく可能であれば、まずは相手から距離をおくことで自分を守ってください。
目の前に起きている問題や困ったことは相手に問題がある場合もありますが、自分の心の在り方に問題解決のヒントが隠されているという視点からも探ってみられることを私はおすすめします。
心の在り方や家族関係に苦しんできた私にとっては自分の弱さを強さに変えてきた「言えないことが癒えるルーム」にしかないオリジナルであり強みだと感じています。私は自分の心の在り方を見つめ直したことでこんな変化がありました。
■関わりたくない相手に接触されても傷つきにくくなった
■相手も自分も否定することなく、相手の言動や行動に傷ついたりイライラすることが減った
■心に余裕ができたことで生きやすくプラス思考になった
■物事への考え方や視野が広がった
■相手の言動や行動を気にしたり振り回されにくくなった
こんな心の変化があったことで苦手な相手と接する辛さから私は解放されたと感じています。度重なるどん底を這い上がってきた私が自己肯定感にこだわる理由は自己肯定感を高めたことで自分を守ることができたからです。
また、自分を大切に思えるようになったことでまずは自分の気持ちを優先し、幸せを感じることが多くなりました。自分が変わることで人間関係、仕事などのストレスからも解放され、ポジティブで生きやすくなります。心も身体も元気になり毎日に喜びを感じ、楽しくすごすきっかけにもなります。
家族や子育ての問題、自己肯定感の低さから生きにくさやつらい感じている方はひとりで悩まずにお気軽にご相談してもらえたらうれしいです。
長文を最後までご覧いただき、ありがとうございました。
一人でも多くの人の心が晴れわたりますように☆彡